「ぼく」 谷川俊太郎と「死の絵本」

詩、ことば、文学

2月19日

 畏友Hから教えられ、ETVの「ぼくは しんだ じぶんで しんだ 谷川俊太郎と死の絵本」を見た。子どもの自死をテーマに、谷川俊太郎が作った絵本「ぼく」を紹介した番組とあっては、「自称詩人」としては見ないわけにはゆかない。
 谷川の「死」についてのことばとしては、「minimal」の中の、「なんという恩寵/人は/死ねる(「そして」)」ということばの群れがまず思い出される。これは衝撃だった。例えば、人がその尊厳を保てなくなった時には、自ら死を選ぶことも許されるという考えがある。「死んだ気になってやる」という言い回しには、失敗したら死ぬ覚悟さえ持てば、どんな困難にも立ち向かえるという含意がある。人生観や、宗教観によっても違うだろうが、ヒトと他の動物の違いとして「自分で死期を選ぶことが出来ること」を挙げる人もいる。だが、そんな説明や一切のエクスキューズを抜きにして、こんな言葉を不特定多数の読者に投げかけるとは…。これがつまり詩人なのか、この人には怖いものなどないのではないかとさえ思ったものである。
 「子どもの自死」をテーマにした絵本を作るのだという。何のために、とまず思った。もしも読者に自死を考えている子どもを想定して、「しなないで」というメッセージを伝えたいのだとしたら、谷川俊太郎という人選は控えめに言ってもベストではないと思うのだ。番組の終盤、谷川の自宅を訪れた編集者に言った「売れ行きを見ないと(この絵本が成功かどうか判断できない)」という言葉が一面の真実を伝えている。僕は決して非難しているのではない。何しろ「私の書く言葉には値段がつくことがあります(「自己紹介」)」という人だ。コマーシャリズムに堕しているという批判はあっても、逆に詩だけで食べていけるという意味では、今の日本で唯一無二の存在が、この人なのだから。
 もちろん編集者だって、「死んではいけない」などと谷川が書かないことは百も承知の筈だ。だが、実際の谷川のテキストは斜め上を言っていたのではないだろうか。「つらかった」とも「さびしかった」とも「こうかいした」とも書かず、詩人はこう書いた。「あおぞら きれいだった/ともだち すきだった/でも しんだ/ぼくはしんだ」。この「でも」が重要だ。現実世界には存在しない、頭の中にしかない言葉だからだ。この「でも」のなかに「ぼく」が「しんだ」理由があるはずだが、それが語られることはない。
 番組では子どもの自死についての文科省の調査結果が紹介され、理由は「不明」が52.5%に上り、「いじめによる」は2.9%に過ぎないという(このいじめの数字は少なすぎるようにも思うが)。友人関係も良好で、普段は明るくふるまっているような子が「生きられない気持ち」になってしまうのだと、相談員の女性も語る。死を選んだ理由が「孤独からだろう」「人間関係だろう」などと、わかったようなつもりになってはいけないということだ。
 番組の後半で谷川はこう語る。「生きたいと思うことと、死にたいと思うことは別々のことではないし、反対でもないと思っている。自殺とは生きたいということの連続、死んでも自分は生きるんだということがどこかに隠れている」。そして、絵本に新たなテキストとして、「いなくなっても いるよ ぼく」という言葉を付け加える。自死を選んだ子どもにどこまでも寄り添う言葉だとは思うが、正直言って今の僕には理解が及ばない。あと三十年生きたら理解できるだろうか。谷川は、ことばを介さないで、存在を見つめることが大事だとも言う。ことばで生きていた人にしてこの言葉。思わず中島敦の「名人伝」を思い出してしまった。
 作者の思いは子どもたちに伝わるのだろうか。最後に絵本を読んだ3人の子どもの感想が紹介される。最初の男の子は「すこしコワかった、自分が死んでも地球は続くということとか」。これはまさに谷川の言う自然宇宙内孤独の感覚の芽生えであろう。60歳の僕も今も同じように怖い。二人目の女の子は「悩みとかをもっとみんなに打ち明けられたらよかった」という。優等生すぎるとも感じるが、これも正しい読みだ。そして最後の女の子。「『いちばんになりたかった/かねもちになりたかった/でも しんだ』の「でも」が悲しい。」この子はちゃんと「でも」という接続詞に注目し、その中身を考えようとしている。自死した子どもの本当の理由は誰にもわからない。わからないということを分かったうえで、それでも考え続けなければいけないのだろう。幼いうちからそういうことを考えていれば、自死は選ばないのかもしれない。
 最後に、それにしても、スノードームをシンボルとして発想した、合田里美という画家の感性には端倪すべからざるものがあると思った。

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