12月28日
「悲報」と言うのは「悲しい知らせ」という意味で、それ以外の意味などありえようもないが、SNS上での使われ方は少し違うようだ。例えば、さっきX(旧ツイッター)で見た記事(ポストと呼ぶらしい)では、「悲報!立花孝志、何事もなく警察を出る。パヨクがっかり」というようなことが書いてあった。なんの事やらと言う人も多いだろうが、この人が言いたいのは、「立花が警察の任意聴取を受けたが、身柄を拘束されることもなく『無事に』出てきたので、立花批判派の『パヨク(左翼の蔑称らしい)』はさぞガッカリしたろう。ザマアミヤガレ」ということだ。つまりこの人は立花支持者なのである。ここでの悲報とは、自分と対立する考えの人を想定して、その人にとっての「悲報」という意味で「おあいにくさま」「残念でした」等と揶揄する目的で使っている言葉なのである。こういうふうに自分にとっての「仮想敵」を揶揄したり罵倒したりする言葉がX上には溢れている。
さて、以上で今回のテーマは終了なのだが、せっかくなので少しSNSについてこの間考えたことを書きたい。必要があってXのアカウントを取得して以来、基本的にはフォローしている人の記事だけを見ているのだが、たまに「おすすめ」というタイムラインを眺めてみる。すると、実に雑多な、そして玉石混交といいつつほとんど石ばかりの情報のなかに、過激な言葉で相手を貶め合っている「ポスト」を見ることになるのだ。今だと、兵庫県の斎藤知事の再選をめぐって、斉藤支持派と反斎藤派が様々なポストをしている。その主張が全く嚙み合わず、議論になっていない。斉藤派は反斎藤派を「オールドメディアに洗脳されているかわいそうな人たち」と見ているし、反斎藤派は斎藤派を「SNSのデマを信じている愚かな人たち」と見ている。それぞれが相手側を「あちら側」などと呼び、短いポストの中に必ず相手側を貶める言葉を入れている。関連するポストを見てみると、稀には反対派の投稿もあるが、ほとんどは同じ主張の人たちが固まっている。いわゆる「エコーチェンバー現象」である。
それにしてもどうしてこんなに二極化するのか。SNSは基本、短文と短い画像ばかりである。そして今の若い人たちは基本的に長文を読まないし読めない。息の長い文章をじっくり読んだ経験もなければ読解力もない。そんな人たちがワンフレーズや切り取り画像を信じ込みやすいのだろうか。漠然とそう考えていたところ、朝日新聞12月25日の「異論のススメ」で、佐伯啓思が分かりやすくまとめてくれていた。
「SNSのもつ革新性と脅威は、(中略)「リベラルな価値」と「客観的な事実」を至上のものとする近代社会の大原則をひっくり返してしまった。民主政治が成りたつこの大原則が、実は「タテマエ」に過ぎず、「真実」や「ホンネ」はその背後に隠れているというのである。「ホンネ」からすると、既存メディアが掲げる「リベラルな価値」は欺瞞(ぎまん)的かつ偽善的に映り、それは決して中立的で客観的な報道をしているわけでない、とみえる。/一方、SNSはしばしば、個人の私的な感情をむきだしのままに流通させる。その多くは、社会に対する憤懣(ふんまん)、他者へのゆがんだ誹謗(ひぼう)中傷、真偽など問わない情報の書き込み、炎上目当ての投稿などがはけ口になっている。SNSは万人に公開されているという意味で高度な「公共的空間」を構成しているにもかかわらず、そもそも「公共性」が成立する前提を最初から破壊しているのである。/今日、公共性を成り立たせている、様々な線引きが不可能になってしまった。「公的なもの」と「私的なもの」、「理性的なもの」と「感情的なもの」、「客観的な事実」と「個人的な臆測」、「真理」と「虚偽」、「説得」と「恫喝(どうかつ)」など、社会秩序を支えてきた線引きが見えなくなり、両者がすっかり融合してしまった。「私的な気分」が堂々と「公共的空間」へ侵入し、「事実」と「臆測」の区別も、「真理」と「虚偽」の区別も簡単にはつかない。SNS情報の多くは、当初よりその真偽や客観性など問題としていないのである。「効果」だけが大事なのだ。これでは少なくとも民主的な政治がうまく機能するはずがないであろう」
なるほど、という感じだ。佐伯は「表現の自由」の価値を称揚してきたのはそもそも「リベラル」な人たちであり、現状は近代社会を支えてきた「リベラリズム」という価値観の限界を示していると説く。僕はたまたま運れ育った時期のために「リベラル」になっただけなのか。いや、そうではないと思う。今、SNSを支配しているような雰囲気(他にいい言葉が思いつかない)は、いつの時代も底流にあった。それをSNSが一気に顕在化したのだと僕には思えるのだ。
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