気になる言葉「いやし」

詩、ことば、文学

12月20日

 「いやし」という言葉が苦手である。もちろん「癒やし」のことだが、この言葉を聞くと脳が勝手に「卑し」と変換してしまう。実際、僕が最も信頼している辞書である、小学館の国語大辞典には、「卑し」はあるが「癒やし」は載っていない。手近の辞書で見たところ、大修館の明鏡国語辞典にのみ「癒やし」の記載があった。英語の「healing」から来ているのだろう。初めは「癒やし効果」「癒やし系」などと言うことが多かったのが、次第に単独で用いられることが多くなったと見える。これは動詞「癒やす」の連用形が名詞化したものだ。動詞の連用形が名詞になるのは、日本語のいわば「法則」である。
 古典の入門期の教材としてよく使われる、徒然草の「高名の木登り」に、「高名の木登りといひしをのこ、人をおきてて」とある。この「おきてて」は「指図して」という意味だが、この動詞「おきつ(下二段活用)」の連用形が「おきて(掟)」という名詞になる。「人に指図するもの」→「きまり・さだめ・法令」等の意味になるのだ。ちなみにこの「きまり」は「きまる」の、「さだめ」も「さだむ」の、それぞれ連用形が名詞化したものだ。だから、「癒やし」もその意味では真っ当な日本語なのである。
  80年代の後半ごろには、「なごみ」という言葉が流行った。これまた当時大流行していたスキー場などに行くと、「なごみの宿」だの「なごみスポット」などという言葉を目にすることが多かった。最初は何のことかわからず、面食らったものだ。もちろん「和む(なごむ)」が名詞化したものなのだ。
 最近では「きづき(気付き)」という言葉も気になる。「お」のついた「お気付き」ならば昔からよく使う言葉だった。これは「お気付きになる」という尊敬表現から派生した言い方だろうと思う。「お」がつかない「気付き」という言い方は、昔はあまり聞いた覚えがない。「気付くこと」ではいけないのだろうか。
 以前の投稿(2022.06.07)でも書いたが、こういう言葉がいちいちひっかかるのは、結局のところ、僕が言葉を習得した時期には(あまり)使われていない言葉だったからだ。それでいて、明らかな新語・流行語ではないということも、いつまでも違和感が残る理由なのかもしれない。
 それにしても、この「癒やし」という言葉を(ついでに言えばなごみも)、若い世代は普通に使っている。どれだけ癒されたい、和みたいと思っているのだろうかと思ってしまう(ここから例によってまた脱線)。
 幼い頃、風呂嫌いだった僕は、大人たちが嬉しそうに湯船につかりながら「極楽極楽」などと言うのが不思議でならなかった。もちろん今は分かる。湯につかると疲れが取れ、筋肉や関節の痛みが緩和される。それゆえの「極楽」なのだが、そんな辛さを感じたことのない当時の僕には理解が及ばなかったのである。
 「人生楽ありゃ、苦もあるさ」とは、山上路夫作詞の「水戸黄門」のテーマ曲「ああ、人生に涙あり」の一節であるが、正確には「苦があるから、それがなくなるとき『楽』を覚える」のであろう。初めから苦しみや愁いが全くなければ、幸せもないのかもしれない。
 それにしても、今の若い人たちはそんなにストレスの多い日常を生きているということなのだろうか。

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