12月9日
BSNHKで「ブレードランナー2049」をやっていたので録画して見た。気にはなっていたが未見だった映画だ(以下、この映画と、前作の「ブレードランナー」及びその原作小説のネタバレを含む)。
「ブレードランナー」は僕が偏愛している映画の一つだ。そして矛盾しているようだが、この映画が傑作だとは全く思わない。むしろ出来損ないの映画という印象だ。この映画に描かれている、昼なお暗く、酸性雨が降り続く猥雑で胡散臭い、悪夢のように魅力的な未来のロサンゼルスが大好きなのである。新作の「2049」というのはこの映画の世界から30年後の設定ということだそうだ。つまり「ブレードランナー」の舞台は2019年だった訳だ。なんともう過ぎてしまっているではないか。
近未来SFというのはもともと難しいものだ。2001年に(というか2022年でさえ)人類は木星に到達していない。「2001年宇宙の旅」の原案者アーサー・C・クラーク(原作者ではない。クラークは同名の長編小説を書いているが、これは映画をノヴェライズしたものだ。また、製作中クラークは何度もキューブリックと対立したという)は、この映画に納得せず、続編となる「2010年」の原作を書き、脚本にも協力した。こちらはずっとわかりやすいが、凡庸な映画だった。この映画の2010年では、米ソの対立は第三次世界大戦まで秒読みというあたりまで悪化していることになっているが、現実はそれより20年ほども前に冷戦は終結、ソ連も崩壊してしまった。
「ブレードランナー」の2019年には、人類の大半は環境汚染の進んだ地球を捨てて宇宙移民している。そして地球にいる動物は合成によって人工的に作られたものばかり(同様にヒトに似せて作られたのがレプリカント)ということになっている。一方で情報通信分野は現実の2019年と比べてもかなり遅れている印象だ。そして新作の2049年はあくまでこの「ブレードランナー」の世界の延長上ということになっている。新作の監督のドゥニ・ヴィルヌーヴは「2019年のブレードランナーの世界にはスティーブ・ジョブズなんていなかったから」と言っているそうだ(Wikipediaによる)。こうなるともう近未来というよりパラレルワールドである。
「ブレードランナー」の原作は言わずと知れたフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」である。この奇想の塊のような小説がなければ、この映画は産まれていないが、映画は改変、潤色されてほとんど別物になっている。原作のシニカルなユーモアは影を潜め、エモーショナルなラブストーリーになってしまっている。ハリソン・フォード演じるデッカードが、レプリカントを抹殺する仕事をしながら、同じくレプリカントであるレイチェルを愛するというあたりは少々共感しにくいが、そういう継ぎはぎの雑な作りがこの映画では、むしろ魅力になっているように思える。劇場公開版のラストでは、レイチェルは他のレプリカントと違って寿命が設定されていないことが明かされ、デッカードとの明るい未来を予感させるエンディングになっているが、監督のリドリー・スコットは気に入っていなかったようで、「最終版」ではこのエピローグを削ってしまった。
原作のレイチェルもなかなか魅力的である。こちらのレイチェルは自分がアンドロイドであることを最初から知っていて、デッカードのアンドロイド狩りに協力すると自ら申し出てくる。そしてデッカードを誘惑して関係を持つ。実は彼女は過去にも何人ものバウンティーハンター(賞金稼ぎ)たちと性交していた。彼女と寝た男たちは二度とアンドロイド狩りが出来なくなるという。怒ったデッカードは彼女を処理しようとするが、思いとどまる。感謝する彼女にデッカードは言い放つ。「くだらん。どのみちきみは、さっきいったように、あと二年のいのちしかないんだ。おれはまだ五十年ある。つまり、きみより二十五倍も長生きするわけさ(朝倉久志訳)」。狩りの仕事を終えたデッカードが自宅に戻ると、彼が大切にしていた山羊がレイチェルによって殺されていた。「なにかアンドロイドなりの理由があったんだろう」とデッカードは思う。このラストでは続編は作りにくかろう。僕はほんの数作しか読んでいないが、意表を突く仕掛けが施されているものばかりだった。壮大なサーガを構想するようなタイプの作家ではないように思える。
「ブレードランナー2049」に移ろう。やはり前作はバッドエンドで、レイチェルは2年後に亡くなっていた。が、その際デッカードの子どもを産んでいたことがわかる。このことはレプリカントたちの間で「奇跡」と呼ばれ、「レプリカント解放運動」の精神的よりどころにもなっていた。一方、タイレル社が倒産した後、レプリカントを製造するウォレスはレプリカントに生殖能力を持たせようとしているが未だ成功しておらず、レイチェルの子どもを探している。ライアン・ゴズリング演じる主人公のブレードランナー(新型のレプリカントである)があまりにも切なく、哀れだ。彼は自分がレイチェルの子どもであると疑い、デッカードを探し出した。だが、デッカードの協力者であった解放運動のリーダーから子どもは女児だったと知らされ、自分に記憶を移植したのが、デッカードとレイチェルの娘であると気づく。彼はリーダーからウォレスの手に落ちたデッカードを殺すように命じられるが、逆に彼を助け出す。そして娘に引き合わせると自分は死んでゆくのだ。何とも救いのない話である。そしてまだまだ先の展開がありそうだ(それを見たいかどうかは別だが)。
前作より金はかかっていそうだし、CGは比較にならない程進化している。だが、あの退廃したロサンゼルスの町の、いかにも作り物めいた胡散臭さが前作の最大の魅力だったのだ。本物らしく作ればいいというものではないと改めて思った。
コメント