目からウロコ 「倭」と「日本」は別の国だった②

8月19日   (「九州王朝」の話 つづき)

 「魏志倭人伝」などの中国側の史料に現れる「倭」は、大和王権とは別の王権であったというのは、そんなに驚くべき考え方ではない。近畿天皇家のみが統治する正当性を持っているというのは記紀を通じた考え方であり、国学以降の歴史学もその立場に立っていたが、少なくとも戦後の歴史学はそれへの反省から始まった筈であった。今日では、出雲地方に先行する王権があったという考え方はごく普通のものであろう。記紀には「国譲り神話」として反映されている。
 「九州王権」は「磐井の反乱」として現れる。「大和王権」のみが正当であるという立場からは「反乱」と表現されるが、これは「一度は平服、恭順したものが邪心を起こして蜂起した」ということでは決してない。記紀の立場からは、大和王権に従わないものはすべて「反逆者」となるのである。そしてその磐井は、実際には滅亡も降伏もせず、7世紀までは命脈を保っていた。白村江の戦を中心となって戦ったのもこの磐井=九州王権であり、その敗戦によって衰微し、その後大和王権に併呑されたと考える。これが「九州王朝説」である。
 歴代中華王朝が「倭国」と呼んだのは、大和王権=近畿天皇家とは別の国であった。そう考えると古代史の大きな謎がいくつも雲散する。
 第一に、卑弥呼の比定問題である。「日本書紀」の編者は卑弥呼の名は使わないものの、「神功紀」の中に魏志の記述を引用している。つまり、神功と卑弥呼を同一視しているわけだが、これには無理がある。神功の事績とされるものが一切魏志に現れないこと、時代も百年以上違う、そもそも神功は「女王」ではない。書紀の編者が当時、神功にまさる卑弥呼の候補を見つけられなかった以上、卑弥呼の候補は記紀の世界にはいないと言ってよい。
 第二は「宋書倭国伝」に出てくるいわゆる「倭の五王」を、歴代のどの天皇に当てはめるかが、諸説紛糾して定まらないことである。どの説をとっても宋書の記述と合致しないところが出てくる。それを宋書側の間違いとするなら、どんな説でも立てられるだろう。また、すべての説が「倭王武」を雄略に比定していることをもって、「武」は雄略で確定とするのはあまりにも乱暴だろう。
 第三が最も決定的だが、聖徳太子の事績とされる隋の煬帝への国書である。「隋書」はこの時の倭王の名前が「アメノタリシヒコ」であるとする(古田は「タリシホコ」と読んでいる)。後宮を持っていたとも書かれ、間違いなく男王である。一方聖徳太子の時代の天皇は推古で、女帝である。また、「アメ」は倭王の姓であるが、近畿天皇家には姓がない。
 これを普通に考えれば、卑弥呼も、倭の五王も、アメノタリシヒコも、大和王権の人間ではないということだ。これこそが近畿天皇家によって抹消された、「九州王朝」なのである。付言すれば、先行する出雲王権を滅ぼしたのも九州王権であろう。天照大神(あまてるおおかみ)をいただく天孫には、「アメ」という姓を持つ九州王朝こそふさわしい。大和王権はこの九州王権の流れを汲み、新天地を求めて東征し、畿内の地に至った「分派」である。これが、「九州王朝説」の要諦である。

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