4月15日
「シン・ウルトラマン」のブルーレイディスク(BD)を購入した。この映画については以前一度この欄で感想を書いている(22年6月1日 是非併せてお読みください)が、劇場で見ただけではよくわからなかった部分もあるので、改めてもう一度書いてみたい。
(ここからネタバレ)最初のタイトル、映画ではまず白黒で「シン・ゴジラ」と出て、それが真ん中からスパークして赤字に白の「シン・ウルトラマン」に変わる。これはTVシリーズのウルトラマンのタイトルを模したもので、オールドファンへの「くすぐり」だと前に書いた。と同時に、この映画が「シン・ゴジラ」の世界を継承していることをも表しているのだろう。「シン・ゴジラ」という映画は「現実の日本にもしも本当にゴジラが出現したら」というところから構想をスタートさせたという(だが、なぜか皇室の存在は捨象されていることも以前指摘した)。常識の通用しない巨大不明生物の前に、現存の官僚機構では全く歯が立たず、最後はオタクや異端児ばかりを集めた「巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)」が活躍してなんとかゴジラを倒す。そして今度はその延長上にある世界が描かれるというわけだ。
劇場では追いきれなかった文字情報もBDならゆっくり読める。ゴメス、ぺギラなどの巨大生物(禍威獣)に対し、「禍威獣特設対策室(禍特対)」が結成される。いわば「巨災対」のミニ版である。この名前は勿論、本家の科特隊(科学特捜隊)のもじりだが、これには先例があり、山本弘の小説「MM9」には気象庁特異生物対策部(気特対)が出てくる。台風のように怪獣(禍威獣)1号、2号と名付けるのもこの小説と同じ。この禍威獣たちはすべてウルトラQに登場したものだが、カイゲルというのは知らなかった。調べたところ、ゴーガの企画段階での名前だという。うーん、マニアックすぎる。
禍威獣ネロンガが出現するところから本編が始まる。前線本部で攻撃を指示する禍特対班長の田村(西島秀俊)に室長の宗像(田中哲司)から電話で、大臣が核兵器使用を言い始めたという情報が入る。日本は既に禍威獣に限定した核使用許諾条約を批准している。なぜか禍威獣は日本にばかり出現するので、政府は国際社会からの圧力に抗しきれなくなっているというのだ。「シン・ゴジラ」よりさらに進んだフェーズにあるらしい。
初めて現れた時のウルトラマンの顔がTV版の初期バージョン似ていたと、以前書いた。TVのウルトラマンの口には当初開閉できるギミックがつけられていたが、結局使えなかった。それを外した影響で初期のマスクの口元には皺が寄ってしまっていたのである。改めて確認すると、やはりこの時のウルトラマンの顔は口元に皺があり、次のガボラ戦の時はなくなっている。このあたりのこだわりはやはり尋常ではない。
禍特対の他のメンバーは、原作の主人公ハヤタにあたる神永(斎藤工)、イデにあたるオタクの天才物理学者滝(有岡大貴)、生物学者の船縁(早見あかり)。戦わない集団なので体力自慢のアラシのようなメンバーはいない。ここに分析官の浅見(長澤まさみ)が加わる。浅見の初登場シーンで流れる音楽は、確か「シン・ゴジラ」でも使われていた。両作とも音楽は鷺巣詩郎が担当し、ゴジラでは伊福部昭、ウルトラマンでは宮内國郎の原作の音楽と併用している。そのせいかどうも音楽に統一感がないと感じてしまう。鷺巣詩郎は「エヴァンゲリオン」の音楽も担当しているので、そちらのファンへの「くすぐり」の意味もあるのかもしれない。僕はエヴァンゲリオンを見ていないのでそのあたりはよく分からない。
音楽と言えば、エンディングのタイトルバックで「筒美京平」と出たのにはびっくりした。これは外星人メフィラス(山本耕史)と神永が居酒屋で会話する場面で店に流れている曲のことで、ドラマ版「日本沈没」の挿入曲「小鳥」(歌唱五木ひろし)がそれだった。まったく妙なところにまで凝っている。
メフィラスは生物兵器として転用できる、人類という生物資源を独占しようとしていたのだが、ウルトラマンは禍特対と協力してなんとかそれを阻む。すると今度はウルトラマンの母星「光の星」からウルトラマンを召還するためにゾーフィがやって来る。ゾーフィは人類は将来「光の星」の脅威となりうるため、恒星系ごと滅却することに決定し、最終兵器「ゼットン」を送り込んだと告げる。
これら一連の話からは、ウルトラマンの属する「光の星」やメフィラス・ザラブなどの外星人たちには、普遍的な文明と言うべきものがあるらしいということがうかがえる。そして人類と彼らとの関係は、「シン・ゴジラ」における日本と米国など国際社会の関係と似ている。「シン・ゴジラ」では、東京の中心に居座るゴジラに対し、国連軍が熱核攻撃を仕掛けることになったが、「シン・ウルトラマン」では、地球がゼットンの超高熱球の攻撃を受けることになる。この映画では、日本が「米国(なぜかアメリカと言わない)の属国」だという表現が繰り返されるが、地球と「光の星」の関係がそれと相似形だというのはなんとも皮肉だ。制作者は最初から意図していたのだろうか。
この映画は、全編製作者の世界観(という言葉は実はあまり好きではないが、他に適当な言葉もないので使っておく)で貫かれているが、本家のQやマンの方には実は一貫した「世界観」などはないのである。縛りがゆるいからこそ実相寺作品のような「異端」も生まれたのだ。この映画は「シン(新・真)・ウルトラマン」というより、「シ(私)・ウルトラマン」と呼ぶ方が相応しいようにも思える。
ウルトラマンが、メフィラスが日本政府に「ベータシステム」を供与することは阻止しておきながら、地球を守るためとはいえ、滝にその基本原理を教えるというのは矛盾している。「シン・ゴジラ」の巨災対は自分たちでゴジラの弱点を発見したのに対し、こちらはウルトラマンの協力なしには、解決策を見出せなかったし、それを実行するのもウルトラマンだ。
神永が覚醒するラスト。これも以前書いたことだが、TV版のゾフィは予備の命を携行しており、それをハヤタに与えることで二人とも生かした。目覚めたハヤタはウルトラマンだった記憶を失っていた。映画は神永が目覚め、浅見が「お帰りなさい」と声をかけるところで終わる。原作通りなら、神永は浅見を知らないことになるのだが…。
エヴァンゲリオンを知らない僕が、初めて庵野秀明の作品を見たのは、東京都現代美術館で行われた特撮展で上映されていた「巨人兵東京に現る」というショートフィルムだった。これも「風の谷のナウシカ」を「私」的に展開した作品と言える。こんなことが出来るのは(もちろんファンがいるからだろうが)羨ましくも思える。結論として、ウルトラシリーズのオールドファンの中には受け入れがたく思う人もいるだろうが、僕はこの映画を充分楽しんだ。
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