4月18日
「光る君へ」については、もう五回も書いたので、これで打ち止めという事で、過去に書いたことと重複する部分もあるがご容赦いただきたい。僕はこのドラマを大変楽しんでいるが、ここに描かれた紫式部は実物とはかなり違うと言わざるを得ない。そもそも確かに伝わっていることが少ないのだから、どう描いてもいいと言えばそれまでなのだが。
いわゆる「歴史好き」の人が、二次的創作物を史実と混同していることも多いので、紫式部の実像と、わかる限界について一度まとめてみようと思う。
まず、紫式部の家が中流か、下級かという事だが、これは中流か毛並みのいい下級という事でいいと思う。為時は996年に越前守になるまで国司になっていないが、父と二人の兄は国司であった。摂津守などをつとめた為頼は姪の紫式部を可愛がっていたようである。また母の祖父、つまり式部の曽祖父に中納言文範がいて、この人は一条朝の988年までは現役であった。角田文衛は、源氏物語「若紫」巻で光源氏が「わらはやみまじなひ(伝染病の祈禱)」に行って、幼い紫の上を見初める場面の舞台になった「北山の某寺」は、岩倉にあった大雲寺で間違いないだろうと言っている。この寺は「床もみじ」で有名な岩倉実相院のすぐ隣にあって広大な伽藍を誇っていたのだが、金銭トラブルのため「消失」してしまった寺である。この寺を創建したのが文範なので、式部は曽祖父に連れられて、この寺に行ったことがあるのだろうと推理しているのである。為時自身は散位(無官)でも、一門はかなり豊かだったと思われる。荘園などを保有していた可能性もある。
ドラマでは弟一人だが、実際には同母の姉がいた。さらに異母兄弟も数人いた。
弟の惟規(兄という説もある)は、「紫式部日記」の有名な記事、「(惟規が)理解に時間がかかり、すぐ忘れてしまう所も、そばで聞いている私の方が不思議なほど理解が早かったので、漢文に熱心だった父は、『残念だ。この子が男の子でなかったのが私の不幸だ』といつも嘆いていた(意訳の現代語訳)」というわずか数行の記述だけで、(実際、そのように取れるエピソードもあるようだが)、惟規=凡庸というイメージが出来上がってしまったようだ。この惟規は、今昔物語集にも登場する。惟規が臨終の床で、高僧が念仏を唱えさせようとするのに耳を貸さず、最後まで和歌作りに執着していたというエピソードである。今昔物語集は仏教説話集なので、罪深い愚行として取り上げられているのだが、死に瀕してまで和歌の道を追求した人物だった訳で、流石は紫式部の兄弟だと言ってもいいのかもしれない
ドラマでは宣孝(紫式部の夫)の御嶽詣のエピソードも描かれていたが、清少納言が「枕草子」でこれを批判的に書いたことが、後の紫式部の清少納言批判につながったのだなどという言説がある。宣孝が派手な装束で御嶽参りをしたことを、「あはれなることにはあらねど」と書いたのを批判と取ったのだろう。実際に読めばわかることだが、これは全くの誤読である。そもそも清少納言は構想を練ってから書くタイプではなく、思いつくまま、筆の走るままに書いている。「あはれなるもの」の例として、まず「御嶽精進」を挙げ、そこからの類推で当時有名だったこのエピソードを書いてしまった後で、「これは『あはれなることにはあらねど』、御嶽精進の話のついでに記したのです」と断っているに過ぎない。
その宣孝と式部が結婚したのは、999年頃。973年出生説をとっても27歳なので、当時としてはかなり遅い(ドラマは970年説)。だが、これが初婚だったかどうかは「わからない」。ドラマのまひろは「間者」として左大臣家に入り込んで倫子と知り合い、その後道長と結婚した倫子から奉公を持ちかけられるが断る。だが、式部は彰子付きの女房として出仕する前からずっと倫子に仕えていたのではないかという説もあるのだ。要するにそのあたりのことは「わからない」のである。
結局、彼女についてわかることはほぼ、「紫式部日記」と「紫式部集」からのみである。これらにしても、彼女の自筆のものが残っているわけではないから、「史料」としては心許ないと言わざるを得ない。これも以前の投稿で書いたことだが、これらを読み解いた結果として、「紫式部は宮中でいじめにあい、五か月間出仕拒否した」などという事がほとんど定説の様に言われているのをよく目にするが、真偽のほどはわからない。
「紫式部日記」がそもそも謎の多い書物なのだ。1008年の秋深く、仕えていた彰子中宮が、土御門殿で第一子を出産する前後、その後式部が一旦宿下がりしてから、彰子が内裏に戻るタイミングで再び出仕して、翌年の正月までの記事で全体の七から八割を占める。有名な公任が式部に「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」と戯れかかったエピソードはここにある。その後同僚の女房達の「かたち(容貌)と心ばへ」への批評、齋院の女房たちとの比較、と続き、あまりにも有名な清少納言批判を含む、三人の同世代女流文学者評、「日本紀の御局」のあだ名の話(ここで父と惟規のエピソードも語られる)、道長との交流の話に続く。最後に第二皇子の出産後のことが少しだけ書かれて終わる。第一皇子との扱いの違いは、もともとなのか、記事が散逸してしまったのかもわからない。その他にも、一部書簡体(手紙文)で書かれているのも謎だ。何らかの経緯で出された手紙が戻って来たのか、出さずに終わった反古なのか、手紙を装うという高度なテクニックを用いたのか。
この時代の女流仮名日記は、当初から文学作品として、同人誌的に回覧されるなどしていたと考えられているようだが、もしこの「紫式部日記」もそうだとすると、清少納言以外にも、多くの存命中の人物を実名で批評し、ソリの合わない同僚の名(馬の中将など)まで書いているのは、どうなのか。
紫式部と清少納言の比較
残されているものの心許なさという意味では、清少納言も同じ。その上でネアカ(陽キャ)とされる清少納言と、ネクラ(陰キャ)の紫式部の違いを見てみよう。
清少納言を特徴づけるのは、やはりなんと言っても「生ひ先なくまめやかにえせざいはひなど見てゐたらむ人は、いぶせくあなづらはしく思ひやられて」(将来がなくって、完成しちゃったみたいでね、嘘の幸福なんか見て安住してるみたいな女はうっとうしくってバカバカしい気がするからさァ-橋本治・桃尻語訳による)、という所ではないか。家庭での安住を嫌い、キャリアアップを目指した彼女がなりたかったのは「内侍」だった。教科書にもよく載る「二月つごもり頃に」で、源俊賢に「内侍」に推挙してやろうかと言われた話が自慢たらたらに書かれている(実現はしなかった)。元夫の則光が六位でも蔵人(蔵人は六位でも殿上人である)の時は親しくしていたが、出世して五位の地方官になると幻滅してしまうあたりも彼女らしい。その他、夏は暑ければ暑いほど、冬は寒ければ寒いほど良い、というのもいかにもという感じだし、大陸渡来のものが好き(今でいう海外ブランド好き)、「かほよき(美男子)」が好きと、とことんミーハーで、田舎者と身分が低い者は徹底的に馬鹿にする。要は当時の宮廷女房の一典型だったのであろう(もちろん才気煥発ではあった)。
紫式部も、玉鬘に言い寄る九州の豪族の描き方など見ると、地方蔑視は強い。一方、光源氏が息子の夕霧に四位を与えず、六位からスタートさせ、大学寮で学ばせたという所には当時の貴族社会への痛烈な批判が読み取れる。「帚木」や「夕顔」の巻には、庶民の生活が活写されているところもある。同じ白氏文集でも、「売炭翁」など、社会批判の部分などもしっかり読み込んでいるので、「香炉峰の雪」を知っていたぐらいで天狗になっている清少納言が許せなかったのかもしれない。いずれにしても陰キャではあるが。ただ、これも前の投稿で書いたことだが、「かくのみ思ひ屈じ」などと書くのはこの時代の常套句である。末世の世なのだ。
和歌に関しては圧倒的に紫式部が上であろう。百人一首でも清少納言のは機知だけの歌だが、紫式部の「めぐりあひて…」は情感に溢れた歌だと思う。「一字決まり(最初の一字で取り札が決まる)」としても有名な歌だが、この歌は新古今和歌集の詞書によって「幼馴染みの同性の友人」に送った歌とされている。詞書がなく、予備知識なしに読めば恋愛の歌として読めるだろう。そう読んだ方がはるかに趣深く思える。
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