「一億総中流」という時代

詩、ことば、文学

2月23日

 三、四年ほど前、1937年に書かれた吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」という少年少女向けの啓蒙書が、突然注目された。もっとも、よく売れたのは漫画版のほうで、僕は読んでいない。この作品についてはずいぶん賛否が分かれたようだが、ここでは深入りしない。あくまで話の「マクラ」だからである。
 僕が驚いたのは、「主人公」のコペル君が、とても裕福な、ほとんど上流階級と言ってもいい境遇に設定されていることである。親友の水谷君に至っては、父親が経済界の一方の雄で、高輪か御殿山あたりの広壮な邸宅に住んでいる。「貧しき友」として描かれる浦川君は豆腐屋の子で、心ない級友から「油揚(アブラゲ)」と綽名されているのだが、その彼の家も世間的には全く下層ではない。機械も入れ、人も雇って店を商い、息子を中学校に送っているのだ(僕の父の最終学歴が高等小学校であることは以前書いた)。この本は、「日本少国民文庫」という叢書の一冊なのであるが、読者として想定されているのは恵まれた家庭の子どもたちだったようだ。
 この本の岩波文庫版の解説にあたる文章に、丸山真男が注目すべきことを書いている。これが書かれた頃は「階級」が歴然と存在したし、都市と農村の格差もひどかったとした上で、こういう貧富の差は今の日本にはないから、「貧乏」をテーマにすること自体が古臭く思えるかもしれない、というのだ。書かれた日付を確認すると1981年の6月、ちょうど僕が二十歳の頃に、貧困や階級差別の問題は日本では過去のものになったと、多くの人が考えていたということになる。時はまさに「一億総中流」の時代だったのだ。丸山はこれに続けて、「第三世界まで話をひろげずとも、(中略)「貧乏」の問題が(中略)過ぎ去った問題であるかどうかには疑問があります」とも書いており、この危惧は不幸にして当たってしまう。
 ところで、コペル君の家には女中とばあやがいて、コペル君は友人への謝罪の手紙を女中に「出しにや」ることに、何のためらいもない。つまりそういう階級の子どもなのだ。この欄で取り上げてきた作品で言うと、「東京の人」の白井家にはふみ子という名の女中がいた(時代は1954年から55年)。榊原るみ主演のドラマ「気になる嫁さん(1971年)」には浦辺粂子演ずる「ばあや」が登場する。だが、僕が育ってきた間、我が家はもちろん、小学校から大学までの友人を見回してみても、家に「使用人」がいる家庭などは一軒もなかった。
 84年に大学を卒業して、最初に赴任したのは町工場が多い大田区の定時制高校だったが、生徒の中に東北なまりのある少女が数人いた。カメラの部品を作る会社の女子寮に住む子たちだった。集団就職は77年までで終わっていたが、この会社は東北地方で中卒女子の採用を続けていたのだ。だが、この会社も翌年には移転してしまい、その後は他の定時制でも、こういう話は聞かなくなった。
 いわゆる「一億総中流」というのは、学問的に定義された言葉ではない。何をもって中流とするかは多分に気分に寄る。「三種の神器(冷蔵庫、洗濯機、掃除機)」とか、「3K(クーラー、カラーテレビ、自家用車=カー)」といった消費財が広まり、多くの人々がかつては夢だった暮らしができるようになったことが大きいともいわれる。所得格差は当時も大きかったというし、様々な差別や矛盾が顕在化していなかっただけという指摘もある。だが、それがたとえ幻想でしかなかったとしても、「使用人」という階級があり、地方との格差を象徴する「集団就職」があるうちは、「一億総中流」とは言えまい。僕の青春期はまさにその時代だったのだが、歴史を俯瞰するとほんの短い間のことに過ぎなかったわけだ。バブル崩壊後は、失われた〇〇年、格差社会、ワーキングプア、最近ではヤングケアラーなどという言葉を目にすることも多くなった。
 先の衆院選で、立憲民主党の枝野代表(当時)が「一億総中流の復活」というスローガンを掲げたが、結局は惨敗した。ただのノスタルジーで終わらせてしまうには惜しい時代だったと思うのだが…。

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