7月31日 (幕府の話 つづき)
徳川氏が、源氏の流れを汲んでいるというのはもちろん虚構である。家康は家名に「箔をつける」ために系図をでっち上げてきたにすぎない。このことについて、「家康は、自らが征夷大将軍になって幕府を開く目的で、源氏を自称したのである。なぜなら、清和源氏出身者以外は征夷大将軍になれない決まりだったからである」などという通説があるようだ。しかし、それは転倒した論理なのである。事実は、徳川家がたまたま源氏を名乗っていたことから、「幕府」という呼称=概念が、後から作られたのだ。確かに、俗に「源平藤橘」などという由緒ある氏姓のなかでも、平家を滅ぼした源氏は武家の棟梁たるにふさわしい姓だと考えられていたことは間違いないだろう。しかし、だからと言って源氏でなければ将軍になれないということはなかった。
繰り返しになるが、江戸時代のほとんどを通じて、「幕府」などと言う言葉はほとんど使われていなかった。「幕末」期に勤皇派の人々が好んで使うようになったのである。そして、水戸家の出身であり、天皇を王者として尊ぶという水戸学の薫陶を受けて育った徳川慶喜が、最後の将軍として「大政奉還の上表」を書いた時、「天皇の臣である源慶喜が、祖先の源頼朝が天皇家から委任されて以来、源氏一統が保ってきた政権を天皇に返上する」という見事な構図が出来上がったのである。皮肉な見方をすれば、このとき初めて「幕府」という概念が確固としたものになったともいえるだろう。
話は変わるが、僕は中学生の頃「なぜ織田信長や豊臣秀吉は『幕府』を開かなかったのか」と、歴史の教員に質問した記憶がある。その時の答えがどういうものだったかは覚えていない。おそらく信長は天下統一の業半ばだったからとか、秀吉も統治組織の整備が十分ではなかったからなどと言うものだったのではないかと思う。だが、既に政権の体をなしていない足利将軍を「幕府」と呼べるなら、事実上それを滅ぼした信長の政権だって「幕府」と呼べないことはあるまい。そして信長の後を継いで、諸国を統一平定した秀吉は、検地・刀狩を実施するなど、後の徳川政権の基礎を築いたのだから、例えば「大坂幕府」などと呼んだっていい筈だ。なぜ彼らの政権は「幕府」と呼ばれないのだろう。その答えは今ならわかる。
源頼朝も、足利尊氏も、徳川家康も、「幕府」など作ってはいない。彼らの作った政府を後世の歴史家が「幕府」と呼んだだけだ。そして織田信長や豊臣秀吉の政府は「幕府」と呼ばれなかった。それは、儒学者や国学者が考えた「幕府」の要件を、それらが備えていなかったから。それをTVのチコちゃん風に言うならば、
「信長や秀吉は、源氏ではなかったから。」
ということになるだろう。下賤の生まれである秀吉が、源氏でないのは当然だ。豊臣は苗字、姓ともに豊臣なのである。そして織田氏の本姓は平氏だ。源氏一統であることが「幕府」を構成する重要な要件である以上、源氏でない信長と秀吉の政権を幕府と呼ぶことはできなかったというわけなのである。
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