歯のはなし

食、趣味、その他

5月8日

 この記事には、何の教訓も有用な情報も含まれない。そういうものを求めている方には時間の無駄であることをまずお断りしておく。
 左上の奥歯が欠けたのでかかりつけの歯医者に行った。以前処置してもらったところだ。僕より少し年上と思われる医師は「この程度なら注射なしでいいでしょう。痛いようなら言ってください」と言ってすぐに削り始めた。もちろん全く痛くないわけではないが、我慢できないほどではない。もしかすると腕が良いのかもしれないが僕には判断できない。他の医師に掛かったことがないからである。
 痛みの思い出として、真っ先に思い出すのは尻にできた腫れ物(粉瘤というらしい)で皮膚科に行った時のことだ。医師は当時まだ若かった僕と同年配の女性で、看護師も女性。尻を見せるのが恥ずかしかった記憶があるが、そんな気持ちもすぐ吹き飛んだ。こちらはうつ伏せに寝ているので何をされているのかわからない。やおら女医が何の感情もこもらない声で「痛いです」と言った。え、何?誰が?と思った次の瞬間、脳天に突き抜ける激痛に思わず絶叫していた。看護師は両肩をがっちりつかんで僕が暴れないように全体重をかけてくる。女医はいささかも慌てることなく、「痛いです」を繰り返す。「痛いです」「いたぁーいっ」「痛いです」「いたぁーいっ」を何度くりかえしただろう。何が行われていたのかというと、女医は切開した患部に膿を吸い取るためのガーゼを、グイグイ押し込んでいたのである。悪名高いコメガーゼという処置であった(あんな野蛮なこと、今でもやっているのかな)。とにかくこの時の痛みが人生で一番。四十代後半で経験した坐骨神経痛も痛かったが、痛みの質が違う。だがこれも辛かった。鈍い痛みだが鎮痛剤が利かず、夜も眠れない。最後にはブロック注射二回で快癒したが、体を動かすのが大嫌いな僕が、予防のための運動を毎日欠かさなくなるほどには痛かった。(僕は、「運動は体に悪い」「もともと全く運動しない人間は運動不足にならない」という持論を、体育科の先生たちの前でもうそぶいていたので彼らから不興を買っていた。統計があるわけではないが僕の経験上、体育科の教員が一番体に故障を持っている人が多い。なぜか喫煙率も高い)。
 脱線した。3年前、居酒屋でバーニャカウダなるものを食べた時、ひねこびた人参を齧った次の瞬間ガリッと音がして、明らかに人参より硬い異物が口の中にあった。吐き出してみると砕けた歯だった。放置していた虫歯が崩壊したらしく、左上の犬歯の一本外側の歯がきれいになくなっていた。そのままにも出来ないので、15年前に一時期通っていた近所の歯医者に行った。たぶん記録も残っていないだろうし、医師も変わっているだろうと思ったのだが、記録は残っていた。医師も同じ人らしく、「自分が処置したところは全く悪くなっていない」と自慢気に言う。15年前初めて見てもらったとき、治療痕が全くないと不思議そうに言うので、「大人になってから歯医者にかかるのは初めてだ」と言ったらえらく驚いていたのを思い出した。その後15年間、全く歯医者に掛かっていなかったのだ。
 入れ歯も覚悟していたのだが、根が残っているので治療できるという。治療と言ったって歯科の場合は、元に戻るわけではない、患部を削って別の素材をかぶせるだけだ(ホテツというらしい)。独自の保障制度があるからと言われ、結構高い保険外の差し歯にした。それで終わりと思いきや、15年の間にその他に6箇所も虫歯が進行していて、この際とばかり全部直すことにした。それに一年近く要した。それ以降も定期健診やら歯石除去やらでずっと通っている。すっかりいいカモにされてしまったようだ。最近ではあれほど嫌いだった歯医者が、ちょっと楽しみにさえなっている気がする。
 ということで詩を一つ。

天空からの声

頭蓋の外は深い闇
漆黒の闇の奥から
鈴を振るような声が
脳膜を蕩かせる
「もうすこしあけられますか」

若い女の指が
怜悧な固いものと一緒に
入ってくる
「痛みがあれば言ってくださいね」
それでは主客転倒ではないか
疼痛に耐えながら
声の主体を想う

世界が白くなる
もっと長く
長く
そのとき
鈴を振るような声が
「終わりました よく濯いでくださいね」

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