9月19日
18日の朝日新聞、the GLOBE「耕さない農業」を読んだ。軽い気持ちで読み始めたのだが、大袈裟に言えば世界観を揺さぶられるような衝撃を受けた。「耕さない」農法があることは知っていた。でもそれは、例えば「水を最低限しか与えないことでストレスを与え、果実等の糖度を上げる」のと同じような「手法」の問題だと思っていた。だが、ここに書かれていたのは、これまたやや大袈裟に言えば、農業そのもの、いや人類の歴史へのアンチテーゼと言いたくなるような重大な問題を孕む内容だったのである。
そもそも、「耕す」とはどういうことか、記事はこう説明する。「自然界に作物と雑草の区別はない。農業とは、人間にとって都合のいいものだけを育てようとする試みだ。一方で、その土地や環境に最も適応した植物が雑草だ。ハンディキャップなしで競争すれば、作物の分が悪い。これに人はすきなどを使って耕すことで対抗した。土地環境を一変して雑草を根絶し、いったんゲームをリセットするのだ。/耕すことで、雑草を抑え、種をまく苗床を準備し、肥料を土に混ぜ込む。これにより作物の種子は、雑草よりも早く発芽して競争に勝てる。こうした効果は短期的には農家にとって利益になるが、長期的には土壌の侵食や有機物の減少などをもたらし土を悪くする。ギリシャやローマなどの文明は、土の劣化が原因で衰退したという説をとる研究者もいる。それでも人力や牛馬の力で耕していた時代はのどかだった。」
20世紀に入ってトラクターが登場すると状況は一変する。環境破壊というと重化学工業のイメージだが、今や地球温暖化ガスの4分の1は農林業が出しているともいう。それでも、「耕す」という行為が農業生産のために必要不可欠ならばしかたないが、実は「不耕起農法」でも収量や収益に大きな差はないというデータもあるのだという。
耕す=カルチベイトという言葉は、文化=カルチャーにつながる。農業の基本であるのみならず、人類の文化の基本なのだ。樹上生活をやめて地上に降りた人類が、過酷な自然を克服して万物の霊長になった。その基本を作ったのが「農耕」であると教わってきた。日本語でも、例えば「心を耕す」と言えば、自己開発するとか、人格を陶冶するという比喩で使われる。真面目な労働の象徴と言ってもいい言葉だからだろう。だがその、「耕す」という選択が、一万年経った今、「悪手」だったとわかったと記事は言っているのである。
記事には養老孟司のインタビューも載っている。「植物は勝手に生えているように見えるが、実は地下でつながっていて、生態系としての網の目が地下で成立している。人はそれを耕すことで、一生懸命、壊してきた」「自然は無理はしないようにできているので、そのままにしておけばいいのに、人はそれが気に入らない。額に汗して働いて収穫を得た、努力が無駄じゃない、生きがいを感じられるような状況を無理に作っているように見える」。なんだか中島みゆきが出ている缶コーヒーのCMを思い出してしまった。
さて、ここから脱線する。自然との共生と言えば、最近はメディアによるSDGsキャンペーンが盛んだが、旗振り役の国連の中心である安保理常任理事国が今も戦争を続けているという現実がある。戦争こそ究極の環境破壊だ。個人のささやかな取り組み(プラスティックバッグを使わないとか)など、砲弾一発で消し飛んでしまうのだから。
今のままではいずれ、人間は今よりずっと狭い都市の中でしか暮らせなくなる。一歩外に出ると本当の自然、本当の自然の中では人間は生きられない(登山道が整備された山など自然ではない)。移動は制限され、学校も仕事もリモートに、娯楽や文化活動はヴァーチャルになるのだろう。ここまで妄想して、これは若い頃読んだアシモフの「はだかの太陽」の惑星ソラリアの世界だと気づいた。ここに描かれた未来の人類は少しも幸福そうではなかった。
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