川端康成の浅草

詩、ことば、文学

6月23日

 好きな作家だからと言って、作品を知悉しているわけではない。お気に入りの作品は繰り返し読むが、斜めに拾い読みして終わった作品も多い。川端康成でいえば「浅草紅団」はまさにそういう作品である。それを読み返してみようと思ったのは、今年に入ってドラマ「雪国」を見て原作を読み返し、「少年」を読みなどするうち、昭和初期の一連の浅草物をちゃんと読んでいないことに気づいたからである。
 読んだのは、まず、中公文庫版の「浅草紅団」。これには続編の「浅草祭」、「『浅草紅団』続稿予告」、「新版浅草案内記」を併録している。それと新潮文庫版「虹・浅草の姉妹」(「浅草の九官鳥」を併録)も読んだ。「紅団」を読んでまず驚いたのは、当時の浅草という土地のリアルが実に精緻に描き込まれていること。冒頭の「とある路地」の場所も、現在の台東区の地図でかなりのところまで絞り込めるほど正確に書かれているのだ。川端は執筆にあたって、幾冊ものノートを作ったという。後年、「千羽鶴」の続編「波千鳥」の執筆を、取材ノートを盗まれたために断念するということがあった。川端は作品のシノプシスを入念に用意するようなタイプの作家ではないと思うが、取材メモは丹念にとっていたようだ。
 内容的にはやはり「出来損ない」の感が否めない。ヒロインだったはずの弓子が途中でどこかへ消えてしまい、もう一人の春子の話になる。連載休止期間の後には作者自身が、この間に「浅草紅団」が映画化され、そこでは弓子が死んでしまったことになっているなどと語る。最後の場面に大島の油売りの扮装で弓子が現れ、「生きていた」となるのだが、それにしても中途半端だ。五年後の続編「浅草祭」には、予告の中で「今年は二十五歳である」と書かれていた弓子は結局全く登場しない。ただ一度だけ見かけた、稲妻屋歌三郎の連れの女が弓子だったらしいとほのめかされるだけだ。一方の春子の方は醜く脂肪太りしてしまって、待合の女将に納まっている。
 このダブルヒロインの系譜はこの後、「花のワルツ」で鮮やかに描き分けられる。男装が似合う弓子は後の星枝、「どんな女よりも、どこかがより多く女である」春子は鈴子であろう。「雪国」の葉子と駒子にもつながる流れだ。
 今回読んだ中では、「虹」が出色だった。これほど美しい小説だとは、以前は全く気付けなかった。群像劇として「温泉宿」等とも通うところもあるが、ここでは銀子が弓子、綾子が春子だろう。
 「浅草の九官鳥」「浅草の姉妹」は人工的な文体が目を引く、爽快感のあるピカレスクであり、この作者が新感覚派と呼ばれていたことを思い出させられる。「姉妹」とは、鳥追いとレヴューの踊子の姉妹なのだが、その昔鳥追いは「非人の女房か娘に限られていた」といい、踊子である妹に向かって「お前にいい人が出来たら、親子きょうだいの縁を切ってやる」と言わせている。「虹」の花子も数え年十一で、四竹を鳴らして御貰いをしている。そういえば「伊豆の踊子」でも「物乞い旅芸人村に入るべからず」という立札のことが書かれていた。作者には逆境でたくましく生きる人たちへの強いシンパシーがあるのだろう。浅草が選ばれたのはただの陋巷趣味からだけではないようだ。
 しかし、皮肉にもここに鮮やかに写し取られた関東大震災からの復興を遂げた浅草は、45年3月10日の大空襲で再び焦土になってしまう。たった20年ほどの短い命だったのである。

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