ミステリーというパラレルワールド

音楽、絵画、ドラマ

6月15日

 「お茶の間のテレヴィは/午後のサスペンス 再放送/何度でも繰り返し/殺害される人々(生命の岸辺)」 これは7月に刊行を予定している第二詩集に収められた拙詩の一節である。平日の午後にTVをつけると、ミステリードラマが再放送されている。地上波だけでなくBSやCS、海外ドラマまでザッピングしていると、ほんの一時間ほどで十数人もが殺されている。繰り返し同じ作品を再放送しているものだから、「この人また殺されてる」となる。それでもなぜかまた見てしまうのである。
 僕はいったん見始めると、どんなにつまらなくても最後まで見ないと気が済まない(その点、妻は途中でもやめられる)。自慢にもならないが、おかげで大体のミステリードラマは途中で先が読める。
 見ていると、殺人の動機で圧倒的に多いのが、家族や恋人を殺された人が犯人に復讐するというもの。警察でさえ発見できなかった犯人をなぜか個人で見つけ出し、なぜか告発しようともせずに我が手で殺そうとするのだ。殺しているところを知人に目撃されてしまい、その知人から恐喝されるというのも「あるある」だ。その恐喝者はなぜか油断して(相手は殺人者なのに!)、まんまと犯人に殺されてしまう。
 誰かを殺したい人たちが協力し合って、動機を持つ人物のアリバイを確保したうえで、別の人物が代わりに殺人を犯すというという、いわゆる「交換殺人」もよくある。だが、僕が61年生きていた間、現実の世界で、「交換殺人」が行われたなどという話は一度も聞いたことがない。もっと言えば、この現代において仇討の殺人など現実には起こっていないし、殺人者を恐喝して逆に殺されたなんて話もまず聞かない。ミステリードラマが描く社会は、この世界と似てはいるが実は全く違う異世界=パラレルワールドなのである。ポオによって最初の推理小説が書かれて二世紀足らずの間に、こんな不思議な世界が出来上がってしまったのだ。
 ミステリーは、Who(だれが)からHow(どうやって)さらにWhy(なぜ)へと進化してきたとよく言われる。最初は純粋に犯人当て、これには消去法が有効だ。容疑者のなかから犯行の機会がない人を削っていくのである。犯人は嫌疑をのがれるために偽のアリバイを作ったり別人になりすましたり、様々なトリックを用いる。次にHow。殺害方法がわからなければ犯罪を立証することができない。そこでありとあらゆる殺人方法が考え出された。また、密室殺人などの不可能犯罪も大流行、機械仕掛けによるものから、錯覚を応用したものなど様々な密室トリックが考案された。中には、殺人を犯した後で死体の周りに家を建ててしまうというような途方もないものまで現れた。
 笑えるのは人間消失トリックというのもの。Aが犯人を追跡して、脇道のない一本道に入ると反対側からやはり犯人を追っていたBと鉢合わせする。犯人はAB二人の間で煙のように消えてしまったのである。もちろん犯人はB。逃げながら犯人の扮装を脱ぎ捨て、くるりと方向転換したというだけのこと。これは一度使うと犯人が分かってしまう禁断のトリックなのであった。
 トリックも出尽くすと、Why(意外な動機)がテーマになってくる。これは例えば次のような話だ。連続殺人が起こるが、被害者たちの接点が見つからない。連続殺人と言えるのは、例えば遺体に赤い塗料が塗られているとか、数字を書いた紙を握らされているとかの共通点があるからで、これは公表されていないので模倣犯ではない。捜査の結果、被害者たちは特定の日時に同じ列車に乗り合わせるとか、同じ宿に宿泊していたとかのことが判明する。実はそこで何らかの事件が起こり、被害者たちによって見殺しにされた人の家族とか、恋人とかが復讐していたのだった。
 このパターンの話がなんと多いことか。意外な動機は結局はほとんど仇討ちになってしまっている。それがミステリードラマの現在地なのである。
 一方、小説の方では、本格ミステリーが今も命脈を保っている。だが、「大どんでん返し」「驚愕のラスト」などと帯の惹句に書かれているような小説の多くは、実は同じトリックを使いまわしている。それが「叙述トリック」である。この「叙述トリック」については、僕は言いたいことがありすぎるほどなので、稿を改めることにする。

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