「光る君へ」と源氏トリビア④

詩、ことば、文学

3月13日

 (ネタバレ)「光る君へ」は第十回にしていよいよ花山院が出家した。いわゆる「寛和の変」である。このあたりの描写は「大鏡」の記述通りだった。牛車が土御門大路の安倍晴明の屋敷の前を通るのも「大鏡」の通り。この場面は僕も何度か古典の授業でやったが、それまで眠そうに聞いていた生徒が晴明の名が出た途端、俄然食いついてくるということがたびたびあった。
 しかしこの回の本当のヤマはその前の、六条の廃院で道長とまひろが結ばれる場面であろう。そして源氏を多少とも読んだ人ならどなたもお気付きの通り、この廃院は、源氏物語の中で夕顔が頓死する「なにがしの院」だろうと思われる。まひろ(紫式部)は後年、自分を夕顔になぞらえたのだろうか…。
 この逢瀬に至る前の二人の文(ふみ)のやり取り、特に道長が送った和歌に、まひろが漢詩を返すというあたり、またそれに藤原行成(演‐渡辺大知)が的確なアドヴァイスを与えるというのがなんとも面白い。他にも、まひろの父が愛妾の最期を看取るために幾晩も家を空ける話とか、源明子(後の道長の側室)の意味ありげな登場シーンとか、見どころ満載の回だった。
 さて、花山院の出家が「大鏡」と同じと先に書いたが、このドラマでは「大鏡」に書かれたエピソードをここまでほとんど拾っていない。「大鏡」はどうにも男性目線で、この脚本家の好みではなかったのかもしれない。道長の青年時代のエピソードは、成功者にふさわしく、その豪胆さを語るものばかりなのだが、実際のところははほとんどがフィクションだと考えられているようだ(付言すれば「寛和の変」が兼家たちの陰謀だというのも、「大鏡」だけが書いていることで、「栄花物語」には全く書かれていない)。紫式部同様、道長の前半生についても、確実なことはほとんどわかっていないのである。
 僕はこのドラマは、大デュマの「ダルタニャン物語」(=「三銃士」や「鉄仮面」のエピソードで有名な大河小説)に似ていると勝手に思っている。実在の人物や史実と創作を融合させた一大絵巻だ。その意味で「謎の男」直秀の今後の活躍に期待していたのだが、前回であえなく死んでしまった。史実ではこの翌年には道長は源倫子と結婚し、さらにその翌年には二人の長女・彰子(将来まひろが仕えることになる)が誕生するのだが…。
 ここで史実という意味で、主要な登場人物の寛和2(986)年当時の年齢を調べてみた。紫式部の生年は諸説あるが、このドラマでは970年説を採用しているようだ。もう一つ有力なのが973年説だが、それだと道長との年齢差が大きくなり過ぎるからだろう。そうするとまひろ(演‐吉高由里子)は、数えで17歳、道長(演‐柄本佑)は同じく21歳、倫子(演‐黒木華)は23歳となる。公任(演‐町田啓太)は道長と同年、斉信(演‐金田哲)が一つ下、行成は六歳下(!)である。花山天皇はまだ19歳、義懐(演‐高橋光臣)が30歳、実資も30歳。道長の兄弟は、道隆(演‐井浦新)は34歳、道兼は26歳、詮子は25歳。吉田羊は貫禄がありすぎる気がするが…。清少納言は20歳前後、赤染衛門(演‐凰希かなめ)は30歳前後というあたりか。なお、この二人と道綱の母(演‐財前直見)は女流文学者として有名だが、道隆の妻高階貴子(演‐板谷由夏)も、「儀同三司の母」として百人一首に載る歌人で、漢才に秀でていることでも有名だった。彼女が夫に漢詩の会を開くことを提案するのにはこういう背景があったのだ。
 ところで、本当のところ紫式部と道長は恋愛関係にあったのだろうか。これについては「わからない」というしかない。「紫式部日記」には、道長が冗談に紛らせて言い寄った歌とそれへの答え(当然はぐらかしている)が書かれている。また、式部の局の戸を夜中に道長が叩いたが、式部は開けなかったという話と、その翌朝の歌の贈答も載っている。この贈答歌は「紫式部集」にもあるが、こちらには道長の名はない。もう一つ、「尊卑分脈」という諸氏の系図を集成した書物の中に、紫式部が道長の「妾」であると書かれたものがある。ヒントとなるのはそれだけで、研究者の解釈は真っ二つに割れているのだ。そもそも歴史研究や文学研究の立場からはそんな「下世話な」ことはどうでもいいのだろう。以前も紹介した角田文衛などは、事も無げに「当然男女の仲だったろう」と言っている。
 源氏物語の「須磨」の巻で、都を捨てて須磨に去ることを決めた光源氏が、左大臣家に挨拶に行く場面がある。最後に我が子の夕霧に会うのが目的だが、もう一つの目的は故葵上の女房である中納言の君と一夜を共にするためであった。この中納言の君のような存在は「召人(めしうど)」と呼ばれる。それこそ下世話な言い方では源氏の「お手付き」である。源氏物語は召人の存在をリアルに書いている点で珍しい作品とされているのだ。召人は、妻妾としての地位は認められないものの、公認の愛人とも言うべき存在だったようだ。当時は一夫多妻の上、通い婚だから、女君は夫が他の妻にばかり通って、こちらには通わなくなる「夜離れ(よがれ)」を何より恐れていた。一方で、女君の側にもコンディション(?)の良くないことがあるから、いつ来られても夫の相手が出来るわけではない。そんな時に主人に代わってもてなすのもこの召人だった。女君から見れば身分差があるので、嫉妬の対象にならなかったようだ。
 紫式部は道長の召人だったという説もある。それこそ下世話な話だが。

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