「光る君へ」と源氏トリビア③

詩、ことば、文学

2月14日

 ドラマは第6回にして、清少納言(演‐ファーストサマーウイカ)が登場した。
 僕は現役教員時代、真ん中に一条天皇、両脇に二重線を伸ばして中宮定子と中宮彰子、定子から線をのばして清少納言、彰子からは紫式部、という「相関図」を書いて関係を説明したものだった(まあ、定番である)。ついでに清少納言はネアカ(今なら「陽キャ」?)、紫式部はネクラ(同じく「陰キャ」)等とも教えた。
 二人に面識があったかどうかは実はわからない。紫式部が出仕したのは1005年か6年とされ、清少納言が仕えていた定子は1000年に亡くなっているので、会ったことはないというのがどちらかというと定説であった。角田文衛は、清少納言が定子の死後も、子の敦康親王付きとして宮中に残った可能性を指摘しており、もしそうなら会っていても不思議はないが、これも証明はできない。だが、二人ともに前半生はほとんどわかっていないので、若い頃に既に会っていた可能性もゼロではないわけだ。紫式部は彰子に仕える前から、母の源倫子に仕えていたという説もある(ドラマではそれを採用しているようだ)から、同じように定子も道隆らともともと親しかったと考えれば、接点は出てくるわけだ。父親同士が知り合いだった可能性も確かにある。
 この漢詩の会の場面は楽しかった。四人の公達の漢詩もそれぞれ考え抜いて選ばれているのがわかる。そして、何といっても清少納言の跳ね返りっぷり。紫式部日記で「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人」と書いているそのままで可笑しい(「清少納言はたいそう『したり顔』をした人」という意。したり顔は最近の言い方では「ドヤ顔」)。

「清少納言」の読み方

 それはそうと、「清少納言」の発音の仕方が気になった。「せい」の部分にアクセントを置き、「しょうなごん」との間に軽くポーズを置く感じで発音していたのだ。ドラマ終了後の「光る君へ紀行」の中でも同様の読み方をしていたので、このドラマではこの読み方で統一するのだろうか。ネットでもさっそく反応があり、「この読み方が正しかったのか」「清少・納言と思っていた」「学校の先生の読み方は間違っていた」などの投稿を目にした。
 清少納言の「清」が姓の清原から一字を採ったものであることは確かだが、「せいしょうなごん」と発音するときは一続きに読むのが普通だと思う。四文字熟語は2字で切ることが多いので「清少・納言と思っていた」人には、「せいしょう・なごん」と聞こえていたのだろう。
 何より、当のNHKが出している「日本語アクセント新辞典」では、「セイショウナ\ゴン」として、「せいしょうな」まで平板で、「ごん」で下がるアクセントを採用しているのだ。

紫式部は宮中でいじめられて引きこもった、というのは事実か?

 今回のトリビアは源氏物語そのものではなく、作者の紫式部について。「陰キャ」のイメージが強い紫式部だが、ネットで検索していると、「出仕初日に、他の女房達から無視されるなどのいじめを受け、里に逃げ帰って五か月間引きこもった」というエピソードがあちらこちらに書かれていた。NHK-BSで、1月6日に放送された「英雄たちの選択・スペシャル」の中でも、国文学者の山本淳子が同様のことを発言していたので、これはどうやらほぼ定説になっているらしい。
 これが僕には疑問だった。中宮付きの女房ということは、中宮職に属する、今で言えば公務員である。五か月も欠勤することなど許されるものだろうか。
 調べてみるとこの話の根拠は「紫式部日記」ではなく、「紫式部集」にあった。彼女は寛弘二年(1005)か、またはその翌年の年末に初出仕したことがわかっているのだが、その時に詠んだ歌が、「紫式部集」定家本の56番である。次の57番と58番の贈答歌の詞書(ことばがき=作歌事情を説明した文)には、「まだいと初々しき様にて里に帰りて」、つまり「宮仕えに慣れない状態で実家に帰って」とあり、続く59番の歌は、まだ実家にいて「春の歌」を作れという注文に応じて書いたものだ。60と61の贈答歌は三月に、「宮の弁のお元」という女房からの「いつか参りたまふ(いつ出仕なさいますか)」という問いに答えて、出仕できない旨を詠んだ歌。そして次の62番の詞書が凄い。「かばかり思ひ屈しぬべき身を、『いといたうも上衆めくかな』と言ひける人を聞きて」つまり、「こんなに苦しんでいるのに、それを『貴婦人ぶっている』などと言っている人がいると聞いて」というのだ。63・64番の贈答は五月の初めで、次の65番は5月5日に土御門殿で詠まれたものなので、この時は出仕していることがわかるというわけだ。
 「紫式部集」は、写本系によって差があるが、おおむね130首ほどが採られており、中には式部以外の歌も入っている。式部が生涯に詠んだ歌はこの数十倍であろう。だから、このわずかな歌と詞書からわかるのは、彼女がこの年の一月と三月、五月の節句の前には実家に帰っていたということで、この間に一度も出仕しなかったかどうかまでは実はわからないのだ。仮に一度も出仕していなかったとしても、定期的に連絡をくれる友人はおり、だからこそ「上衆めく」などと言って非難している人がいることを知ったのである。
 ここからは僕の想像が入るが、「紫式部いじめられて引きこもり説」だって想像だ。紫式部は出仕した時点で三十歳を過ぎており、既に「源氏の物語」の作者として知られてもいた。彼女の出仕を後押ししたのが道長であることは間違いない。おそらく彼女は初めから出仕してもしなくてもよく、いつでも里邸で執筆に専念してもよいという、いわば特別待遇だったのではないだろうか。それを妬む朋輩もいて、それが「上衆めく」という発言につながったのではないか。
 「紫式部日記」から読み取れるのは、彼女が出仕してからわずか二年ほどで、難しい応対はすべて彼女に任せるというほどの信頼を得ていること、特に中宮彰子からの信頼は厚く、里下がりすれば早く帰参するよう矢の催促だったことだ。中にはソリの合わない同僚もいた(それが「上衆めく」と言った当人かはわからないが)が、仲の良い女房もいた。この「紫式部日記」を先入観なく読めば、「紫式部いじめられ説」の根拠となる、「男だに才がりぬる人はいかにぞや。はなやかならずのみはべるめよ(=男でさえ学識をひけらかす人はあまりぱっとしないようです)」なども、朋輩の女房達から言われたわけではなく、あくまで一般論として言っているのがわかる。「日本紀の御局」というありがたくないあだ名にしても、これを言ったとされる左衛門の内侍は内裏女房(天皇直属の女房)で、紫式部とは職場が違うので、別にそれでいじめられたというわけではあるまい。
 紫式部が「陰キャ」だったのは間違いない。が、それは彼女があまりにもものがよく見え、世の中のことを知り尽くしていたからだろう。華やかな世界に身を置きながら、駕籠かきや水鳥に自分をなぞらえるのは、単に自分を卑下しているからではない。誇り高い彼女は道長のことも決して手放しで褒めてはいないし、定子中宮の弟である隆家の酔態を手厳しく批判してもいる。 「源氏物語」でも、栄華を極めた光源氏も最後は紫の上を失った失意と悔恨のなかで寂しく死んでゆくし、当代きっての貴公子二人から求愛された浮舟は出家遁世を選ぶ。
 紫式部が「往生要集」を読んでいたことは間違いないだろう。時代は末世なのだ。「かばかり思ひ屈しぬべき身」などは常套句に過ぎず、清少納言の「陽キャ」の方が当時はむしろ異常なのだ。

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