「共感」を求める社会

食、趣味、その他

8月31日

 朝日新聞8月27日朝刊オピニオン欄の、小説家星野智幸の寄稿「言葉を消費されて」を読んだ。共感するところが多かった。
星野は「ぼくが社会や政治について言葉にしてきたのは、共感する者同士の居場所を作るためではなく、境界をなくして少しでもマシな状況へと変化させるためであったので、それが内輪の居場所のためにばかり使われていくことにすっかり失望してし」まったという。
 僕がこのブログで過去に言及してきたこと、例えば「ミニマルなコミュニティーを一歩出ると共感性が失われるという危険性(23・11・25投稿)」とか、定年後にシナリオを学び始めた友人の言葉「学友たちがみんな『共感を手探りしている』感じがする、世の中が『共感にこだわり過ぎ』ではないか(24・6・08投稿)」ともつながっていると思う。
 朝日新聞のWEB版には、今日現在でこの記事に18件のコメントが寄せられていて、関心が高いことが分かる。中にはこの論考の中で使われている「カルト」という言葉の定義に対しての宗教界からの批判などもある(それ自体は正しいが、この文章の本題とは関係ない)。コメントの中には、星野が「リベラル層の正義依存」を批判していると誤読しているものもあった。星野は、本来個人を重視するはずのリベラル層「ですら」、「正義」に依存するために個人を捨てていることを指摘しているのであって、「正義依存」がリベラルに特有のものだと言っているわけではない。朝日に意見投稿する「識者」の中に、この程度の読解力もない人がいるのが驚きだ。
 中で、僕が関心を持ったのはルポライター・安田峰俊のものだった。彼は星野のような態度を「ナイーブ」と断じ、「あらゆる言論機関」は「その客層が喜ぶ方向の情報をポジショントークで発信して商売しているのは当たり前の話」であり、「私を含む世間の多くの人たちは、心の中に自身が正義の代行者や体現者になりたい欲を持っており、正義欲の充足はポルノやマネー情報並みの大きな市場を持っている」ゆえ、「それを刺激する情報を売るのが、言論商売者や政治家の常識」だと綴っているのだ。
 額面通りにとれば、65年生まれの星野より、82年生まれの安田の方がスレッカラシだということか(ちなみに僕は61年生まれ)。安田は先のコメントを「私が『この記事が話題となる現象』にピンとこないという事実自体が、日本の社会の分断を示しているような気もします」と結んでいる。
 この、日本や世界の分断に拍車をかけているのが短い間に急発展したソーシャルメディアであることは疑いない。以前も書いたことだが、社会に安住の場を持てない人たちにとってSNSは福音だった。しかし、価値観の異なるものが話し合い、調整して制度を作っていくためには全く適していない。星野はこの論考でSNSについては触れていないが、彼も言う通り、「誰もが自己を放棄し無謬性にすがりついてまで、安心できる居場所を欲している現在は、どれだけ殺伐としていることか」。全く同感である。SNSに代わる新たなプラットフォームが必要だとは思うが、さて…。

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