9月1日 (前項のつづき)
新聞のテレビ欄で「ウルトラセブン参上!」を見たときはびっくりした。マンとセブンは別の世界の物語だと思っていたからだ。早い話、セブンに科特隊は出ないし、アラシ隊員(石井伊吉=毒蝮三太夫)が、ウルトラ警備隊ではフルハシ隊員になっている。それぞれが完結した世界なので、あの「史上最大の侵略」の感動的なラストで、傷ついて帰って行ったセブンが、「帰ってきたウルトラマン」に出てくるというのは、なんとなく納得いかなかった。
だが、この回以降も実質的に大きな変化はなく、実相寺昭雄脚本の作品とか、岸田森が書いた作品、問題作とされる東条昭平監督の「怪獣使いと少年」等、バラエティーに富んだ作品が続き、好調は維持されていた。その裏で、僕はもちろん知らなかったが、「大人の事情」が進行していた。ヒロインの榊原るみが、並行して撮影していたドラマ「気になる嫁さん」が多忙になったため、降板することになったのである。そして制作陣はこの機会にさらなるテコ入れを考えていた。
第37話「ウルトラマン夕陽に死す」の回、ナックル星人は郷に精神的なダメージを与えるために、恋人のアキ(榊原)を殺害する。兄の健も命を落としてしまう。心理的にも追い詰められたウルトラマンはナックル星人に敗れる。すると翌週の「ウルトラの星光るとき」では、ウルトラセブンに加え、初代ウルトラマンまでが応援に駆け付けるのである。ウルトラマンがウルトラマンを助けるって? 今のウルトラマンは前のウルトラマンとは別人だったの? 岸田森演ずる健が死んでしまったのもショックだったし、この回以降、怪獣の造形や特撮も心なしか安っぽくなったように思え、僕はすっかり見る気を失ってしまった。最終回も見ずじまいだった。
次回作は当初、「ウルトラエース」とアナウンスされていたが、ふたを開けると「ウルトラマンエース」だった。変更したのは商標権の事情らしいが、この間にウルトラの世界の設定も着々と変容していた。ウルトラマン、ウルトラセブン、帰ってきたウルトラマン(後にはウルトラマンジャックという名が与えられる)とウルトラマンエースは兄弟であって、ウルトラマン最終回でウルトラマンを助けにやって来たゾフィが、長男なのだという。んな阿呆な。確かにあの時ウルトラマンは「ゾフィ」と言っていたようにも聞こえたが、それが名前だったとは。それなら、セブン最終話に出てきて、「変身してはいかん」と警告していたセブンそっくりの宇宙人(セブン上司などと呼ばれる)は一体どうなるのか。
「マン」も「セブン」も、話の骨格を作ったのは脚本家の金城哲夫である。ウルトラマンは怪獣ベムラーを追跡中に衝突事故を起こし、科特隊のハヤタ隊員を死なせてしまう。そこで自分の命をハヤタに与え、一つの命を共有することにした。最終話で、命を持って助けに来たゾフィに、自分が去るとハヤタが死んでしまうから、その命はハヤタにやってくれと言う。するとゾフィは、命は二つ持ってきたので一つをハヤタに与えようというのである。
一方、セブンの主人公モロボシダンは、セブンが薩摩次郎という人物をモデルに作った、人間に化けるときの姿である。ダンはセブンそのものであり、宇宙人なのだ。そのセブンが闘いの連続で消耗し、これ以上闘えなくなる。そこで前述のセブン上司が、「これ以上闘うと命を落とすことになるぞ」と警告するのだ。その後セブンは最後の闘いに勝ち、命がけで故郷に帰っていく。
つまり、「マン」の世界では、命は携行したり、与えたり、共有したりできるものであったが、「セブン」では一つだけのかけがえのないものなのである(これは我々の普通の生命観と同じである)。生命観一つとっても両者はこれだけ違うのだ。ひとつながりにくくるのは乱暴だろう。
「帰ってきたウルトラマン」の前年、金城は円谷プロを辞めている。そしてウルトラ兄弟はその後ウルトラファミリーになり、どんどん増殖してゆく。その中で「ウルトラマン」から「新マン」「ウルトラマンジャック」などと格下げされてしまった、「帰ってきたウルトラマン」が悲しい。
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