「光る君へ」と源氏トリビア②

詩、ことば、文学

1月25日

 藤原道兼による紫式部の母の殺害について、前回の投稿で「当時の貴族にとって死は『汚れ』であり、血を見ることは禁忌だった」はずだと指摘した。放送第二回で、道兼は父兼家からその点を追及され、結果として汚れ仕事を強要されることになる(なるほど、こうつながるのか)。このようなドラマには時代考証の専門家が付くから、僕が気付くぐらいのことは当然織り込み済みなのだろう。それにしても、裳着(成人式)も済ませた姫君が市中を走りまわるとか、道長が微行中に放免に捕らえられてしまうとか、紫式部が「間者」として左大臣家に潜入するなど、「専門家」には思いもつかないだろう事ばかりである。そして次回(第四回)では、どうやら紫式部が五節の舞姫になるらしい(勿論これも史実にはない)。決して批判しているのではない。これはほとんどの視聴者が、これまで見たこともないようなドラマなのではないかと思うのだ。視聴率では苦戦しているらしいが、僕はなかなか面白いと思っている。
 「上を目指すことは、わが一族の宿命である」と言う兼家の振り切れた悪役っぷり。円融天皇(‐演 坂東巳之助)の酷薄さや、師定親王(のちの花山天皇‐演 本郷奏多)のゲスっぷりなども鮮烈だ。今後は「史実」として残っているものとどう整合を付けるかも見どころだろう。「痴れ者」を装いつつ「見るところは見ている」と言う花山天皇が、そうやすやすと兼家・道兼には騙されないような気もするのだが…。
 藤原実資(‐演 秋山竜次)がここへ来て存在感を増してきている。道長たちより一つ上の世代だが、長生きして右大臣にまでなった人物だ。有職故実の専門家で、時流におもねることなく信念を貫いた人物と言われているが、風采は上がらなかったようだ。興味深いのは「紫式部日記」の中で、めったに人を褒めない紫式部が好意的に書いていることだ。ちなみに、第三話で実資は「頭中将」と呼ばれていた。奇しくも光源氏のライヴァルと同じ呼び名だが、前回も書いたようにこれはただの役職名に過ぎない。蔵人頭(くろうどのとう)と近衛中将を兼ねているという意味で、たまたま実資がこの時その地位にあったわけだ。その実資が女房達の不興を買ってうろたえている様が妙におかしかった。実資はキーパーソンになってくるのだろうか。そして何より散楽一座の謎の男(‐演 毎熊克哉)が、今後物語のなかでどんな役割を担うことになるのかが気になる。

 さて、今回のトリビアは源氏物語の「五十四帖(巻)」について。源氏物語の帖(巻)の長さには実は大変なばらつきがある。最も短いのは「花散里」「篝火」で、活字本では3、4ページほどしかない。反対に長いのは「若菜」で、唯一「上」と「下」に分かれている帖だが、どちらも非常に長く、合わせると源氏物語全体の約一割に相当する。ちなみに、分けずに一帖とみなす場合もあり、そうすると「五十三帖」になってしまいそうだが、その場合は「幻」巻の後に「雲隠」という帖を付け足して五十四帖にすることが多い。この「雲隠」は光源氏が死去する場面に相当するが、本文はない。本文はあったが失われたのか、最初から存在しなかったのかもわからない。
 「若菜」を実際に読んでみると、上の最後と下の冒頭はごく自然につながる。そして下に入ってしばらくしたところでいきなり時間が四年も飛んでしまい、その間の記事はない。「若菜」を二つに分けるならここで切った方がはるかに自然なのに、何故そうしなかったのか、この上下の分け方もまた「謎」である。
 似たような例を挙げると、第二帖の「帚木」と次の「空蝉」の本文もつながっており、なぜこれを二帖に分けているのかよくわからない。この二帖と次の「夕顔」を合わせて「帚木三帖」と呼ぶことがある。先日放送のNHK「英雄たちの選択スペシャル」では、紫式部がこの三帖から源氏物語を書き始めたと断定的に言っていたが、これはあくまでも「一説」だ。だが、確かにこの三帖と第一帖「桐壺」とのつながり方はとても不自然なのだ。「桐壺」で語られた光源氏と藤壺の宮の交流がこの三帖では全く描かれず、もっぱら光源氏と、「空蝉」「夕顔」と呼ばれる中流階級の女性との恋愛話になっているからだ。
 源氏物語の第一部(光源氏が准太上天皇となるまで)の33帖のうち、この「空蝉」「夕顔」とさらにもう一人「末摘花」と呼ばれる女性の話とその後日譚(夕顔の娘である「玉鬘」が登場する十帖は特に「玉鬘十帖」と呼ばれる)の帖が約半分に当たる16帖あり、これを除く17帖だけ読んでも大まかなあらすじは変わらない。そこで第一部を「本伝」(長編系、紫の上系ともいう)17帖と、「別伝」(短編系、玉鬘系ともいう)16帖に分けることがある。さらにそこから、実は紫式部より以前に原源氏物語とでも言うべきものがあったのではないかという説もある。その形を残しているのが「本伝」で、紫式部は「別伝」を書き加えながら全体を整理していったというのである。「原源氏物語」の作者の候補として、父の藤原為時の名が挙がることもある。
 「更級日記」に「源氏の五十余巻」と出てくることから、この記事の1021年には、源氏物語の写本が流通していたことは確かだが、「余」=「四」ではない。先にあげた「雲隠」以外にも「桜人」など、名前だけが伝わっていて本文が残っていないものもあり、最初から「五十四帖」だったかどうかはわからない。「更級日記」には「一の巻」と書かれていることから、この時点では「桐壺」などの巻名はまだなかったという説もあるがそれには反対も多い。
 すっかりとりとめがなくなってしまったが、何しろ源氏物語の現存最古の写本ですら、紫式部の時代から二百年も後のものなのだ。「謎」はまだまだたくさんある。

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