気になる言葉「不倫」②

詩、ことば、文学

10月30日

 10月27日の朝日新聞「耕論」は、「不倫 なぜざわつくのか」という題で、三氏の意見を載せていた。今年の6月17日に「気になる言葉『不倫』」を投稿したこともあり、興味深く読んだ。(ぜひ前稿も併せてお読みください)
 ドイツ出身のサンドラ・ヘフェリンは、「ドイツ語の単語に、「浮気」はありますが、道徳に反するという意味を含む『不倫』は聞いたことがない」という。だが、これは前稿でも書いたことだが、日本語の「不倫」も、もともとは単に「人の道にそむく、不道徳である」という意味の「形容動詞(の語幹)」であり、「不倫な行い」などと使われていた言葉だ。専ら男女間のことに使われるようになったのはせいぜいこの30年くらいのことなのだ。
 このブログは「脱線」を旨としているので例によって脱線する。実は形容動詞というシロモノは、これを認めないという学者もいるくらい微妙なものだ。語幹はそのまま名詞として通用することが多いし、活用語尾の部分は「断定の助動詞」と同じだからだ。そこで学校文法では、「『とても』を付けて成立すれば形容動詞」などと教えることが多い。「とてもきれいだ」はいいが、「とても人間だ」はヘンだ。だから、「きれいだ」は形容動詞で、「人間だ」は、名詞(人間)+助動詞(だ)だというわけだ。最近はCMのコピーなどで、「綺麗が止まらない」などという表現を見ることがあるが、これに抵抗を感じる人がいなくなれば、「きれい」も普通名詞としていいのかもしれない。
 「不倫」の場合、「それはとても不倫だ」などとは(少なくとも最近は)あまり聞かない。今では不倫は名詞、それも「配偶者以外の異性と肉体関係を持つこと」という意味に特化して使われるようになったようだ(くどいようだが、ここ3、40年の話だ)。ちなみに、法律用語では不倫とは言わず、「不貞」という。だったら他でも不貞で良さそうなものだが、ゴシップメディアは「不倫」を使う。配偶者以外とと肉体関係を持つことは「人の道」にあらず、といいたいのだろうか。「人の道」に反する悪行など他にもいろいろあろうに、「不貞行為」だけを不倫と呼ぶのも解せない。
 自身も夫の「不倫」の「被害者」である元衆院議員の金子恵美は、不倫報道の公益性を問題にする。「迷惑を被っているのは、配偶者あるいは、その子どもであって、当事者が『夫婦間で解決しています』と言ったら、それ以上はたたかなくてもいいのではないでしょうか」「週刊誌やテレビは、不倫の事実だけでなく、ラブレターやLINEを面白おかしく、公にさらしている。プライバシーの侵害ではないでしょうか。最近、その線引きがルーズになっている危うさを感じます」というのは、まさにその通りだろうと思う。
 今話題の(?)、政務官の「不倫」にしても、記事を読んでいない(読む気もない)ので知らぬが、その政務官氏は特権的な地位を悪用して「不倫」に及んだということなのだろうか。仮にそうでないなら、引責辞任などは必要ないと思う。
 僕は別に性解放論者ではないが、最近の「不倫たたき」は、どうも過剰に思えてならない。本来当事者間で解決すべき問題なのに、社会的地位を失わせるところまで追い込むのはやりすぎだろう。それにしても、「不倫」がこれほど鉄板の週刊誌ネタになるのは何故で、一体どういう層がそれを支持しているのか。
 清田隆之は、不倫たたきの時に絶対的なカードとして「子ども」が使われる、としたうえで「この『子ども』は、夫婦別姓論議のときに出てくる『名字が違うとかわいそう』や、シングルマザーへの『両親がそろっていないとかわいそう』と、持ち出し方が似ています。その底には『子どもを育てるのは母親で、そろった両親の下で育てられないと幸せではない』という古い家族主義的な価値観があるように思えてなりません」と言う。先のサンドラ・ヘフェリンも「性的多様性が注目されていますが、今の不倫の話題は、ほぼ男女の話。不倫が人気ネタとして消費され続けるのは、『男と女が結婚する』以外の生き方を広めたくないという意識が、どこかで働いているのではと感じます」と述べており、両者の主張はつながっている。こうして考えると、過剰な不倫たたきも、今世紀初頭からの「バックラッシュ」の一環と言えるかもしれない。

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