「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」を読んで、考えたこと

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11月25日

 今年亡くなった坂本龍一の最後の日々を綴った「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」を音訳ヴォランティアの依頼で読んだ。読みながら考えたことをまとめてみたいと思う。いつも以上に取り留めなくなってしまう予感があるのだが。
 まずは、坂本が母校である東京藝術大学の客員教授として特別授業をした時のエピソードから。希望者多数のため「選抜」された受講生たちに、坂本が各自の研究テーマと「好きな映画」を述べさせたところ、研究テーマについては魅力たっぷりに語るのに、映画となると途端に口ごもり、宮崎駿の「風立ちぬ」などを挙げたという。坂本はもちろんジブリが悪いわけではないが、もっと「とんがった」答えが欲しかったと言う。さらに自分が現役の藝大生だったら、「坂本龍一が来る」と聞いても絶対に行かなかったはずで、そういうヤツの方が見どころがあるとも書いている。
 だが、社会学者の土井隆義が指摘しているように、今の若者たちは基本的に尖ってなどいないのだ(土井はそれを「高原社会」という言葉を使って説明している)。藝大生という恵まれた境遇にいるならなおさらであろう。彼らは余分な衒(てら)いなどなく、素直に研究に取り組んでいるだけだろう。別のところで坂本は、最近の若い演奏家の技術の向上は目覚ましく、世界に出ても恥ずかしくないとも書いていたが、それも当然なのだ。
 僕は先日畏友Kに誘われて、ショパンコンクールに出場経験のある、うら若いピアニストの演奏を至近距離で聴くという経験をしたが、本当に圧倒された。二十歳そこそこの彼女は欧州で暮らし、外国人に師事していると語っていたが、そこに何の衒いも、力みも感じられず、ただ自然体だった。ほんの半世紀前、留学経験のある作家辻邦生(1925~1999)を評して、先輩である中村真一郎(1918~1997)が、「作者は西洋人と日本人は判りあうことは出来ない、とは全然、考えていない」ことを「驚くべき」ことだと書いていた(「この百年の小説」1974)。まさに隔世の感がある。
 さて、僕がこの本でいたく共感したのは、「芸術・文化面では、今後何か壊すべき強力な価値観が生まれるとは思えない」というくだりだ。マルセル・デュシャンが既製品の小便器に、「泉」という題をつけて展覧会に出品したのが1917年。そして坂本が生まれた1952年に、ジョン・ケージは「4分33秒」を書いた。これは4分33秒間演奏者は何もしないという「曲」だ。こうした「古い価値観を壊して斬新なものを作ろうとしたムーヴメント」は、今日では全然新しいものではないと坂本は言うのだ。
 僕は「ヨコハマ・トリエンナーレ」を毎回見ているのだが、そこで「時代」とか「潮流」とかを感じることはあまりない。未来人がこれらを見た場合、マテリアルを分析して時代特定はできても、作風からの特定はできないだろう。現代アートは「なんでもある」からだ。アートの潮流は「ポストモダン」あたりで終わっていると思う(あくまでシロウトである僕の個人的な意見です)。
 そして同じことは、音楽や文芸思潮、思想界さらには社会全般にも言えるのではないか。現代では「老いも若きも夢中になる」ようなブームはもはや起きない。一方で「昭和歌謡に詳しい小学生」がいるように、興味関心の対象は非常に個別化、細分化している。そこではとうに忘れ去られたと思われていたブームが復活していたりもする。驚くべきことに彼らは一人ではなく、それぞれに小さなコミュニティーを作っているのだ。先の藝大の特別授業の話に戻れば、映画と限定せず、「専門以外でハマっていること」を聞けば、個性的な答えがいろいろと返ってきたのではないかと思う。
 無論SNSのおかげであろう。こういうことが可能になったのは、少数者にとっては福音であったはずだ。だがそれは、ミニマルなコミュニティーを一歩出ると共感性が失われるという危険性もはらんでいた。また、安易な断定は避けるべきだが、最近起きた凶悪犯罪の中には、こうしたコミュニティーに安住できなかった人物が犯したとされるものもある。
 今を生きているという感覚を得にくい時代だからこそ、世界を俯瞰的に見る視点が必要なのだが、それは意識して努力しないと得られない。かつて教員であった自分は充分にそれを教えてきただろうかと自問しているところである。

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