「ゴジラ-1.0」を見た

音楽、絵画、ドラマ

ゴジラ-1.0の感想。

12月8日

 「ゴジラ-1.0(マイナスワン)」を観た。ゴジラ生誕70周年記念(正しくは来年だが)、国内30作目のゴジラである。実に面白く、2時間5分が短く感じられた。評判も上々のようだ。成功の要因はいくつかあるが、最初から最後まで見せ場をバランスよく配し、飽きさせなかったこと、人間側のドラマとのバランスが良かったことが上げられると思う(この後ネタバレ)。
 ゴジラが登場する見せ場は大きく4つ。戦時中、大戸島の守備隊基地を巨大化する前のゴジラが襲う場面、主人公たちが木造掃海艇「新生丸」に乗って強大になったゴジラと遭遇する場面、銀座に上陸して破壊の限りを尽くすゴジラ、そして相模湾での最終決戦である。
 巨大になる前のゴジラが登場するのは、「ゴジラvsキングギドラ(1991)」以来である。両者を比較すればこの間の特殊効果の進歩がわかるだろう。また、オンボロ船でゴジラと対峙する場面では、スピルバーグの「ジョーズ(1975)」を思い出した。銀座の場面では、わずかに合成のアラも見えたが、日本のVFXもついにここまで来たかと思わされた。元航空士官がプロペラ機でゴジラに挑むラストは「ゴジラの逆襲(1955)」を彷彿とさせるが、最後に仕掛けがある。主人公敷島(演‐神木隆之介)が乗る「震電」には、自動脱出装置が備えられていたのだ。これを取り付けたのは、全滅した大戸島守備隊隊長で、敷島を深く憎んでいた筈の橘(演‐青木崇高)であった。このラストで人間側の物語も締まる。もちろん、ご都合主義的なところは多いし、人間の描写が薄っぺらいという批判も目にした。「この国は人の命を軽視し過ぎた」と語る元技術士官の野田(演-吉岡秀隆)の前半生も語られない。だが、それでいいのだと思う。捨象することで成り立つ物語もあるのだ。
 今回のゴジラは、46年の核実験の影響で巨大化したのだが、熱線を吐くたびに自らも傷つき、回復に時間を要するという。ゴジラも被害者なのだ。また、国会議事堂周辺が消失してしまうのは、終戦後二年を経て東京に原爆が落ちたようでもある。ラストシーンでは死んだかに見えたゴジラの再生が早くも始まる。と言ってもそれがそのまま54年のゴジラにつながるわけではないだろう。54年のゴジラはあくまで日本人が初めて出会うゴジラなのだ。この映画と54年のゴジラの世界は、パラレルワールドなのである。
 従来の東宝の怪獣映画の副筋は、怪獣と関係ないギャング映画ばりのストーリーか、政治家を前面に出したものが多かった。僕は「シン・ゴジラ」にはイマイチ乗れなかったのだが、それは主人公を含む登場人物の大半が政治家や官僚だったせいもある。
 今作のゴジラは、シン・ゴジラに引き続きフルCGであるが、シン・ゴジラとは姿かたちがまるで似ていない。むしろ近年のアメリカ版ゴジラに近い感じがする。ゴジラというのは実に不思議な存在だと思う。シリーズとはいっても、「スター・ウォーズ」のようなストーリーの一貫性はなく、ゴジラの姿かたちも毎回違っているからだ。

そもそもゴジラとは

 ある程度以上の年齢でゴジラを知らないという人はまずいないだろう。だが、その時に思い浮かべるゴジラの姿は人によって違うと思う。僕の場合のそれは、「キングコング対ゴジラ(1962)」や「モスラ対ゴジラ(1964)」に出てきたゴジラである(マニアはキンゴジ、モスゴジと称する)。子どもの頃TVで初めて見たゴジラであった。第一作の「ゴジラ」を観たのはそれより後だったと思うが、これは本当に怖かった。ゴジラの足音と啼き声で恐怖を煽る演出もだが、角のようにとんがった耳や、どこを見ているのかわからない目が怖かった。「キンゴジ」以降のゴジラは爬虫類顔になり、耳がない。
 どの映画で、何体のぬいぐるみが(最近は着ぐるみというようだが)作られたとか、どのようなデザイン変更があったとかは、Wikipedia等にも詳しく出ているので、僕がここで半端な知識をひけらかす必要もないのだが、しばらくご容赦いただきたい。
 54年のゴジラは、新兵器オキシジェンデストロイヤーによって死滅するが、山根博士は「あのゴジラが最後の一匹だったとは思われない」と言う。その予言通り、翌年には「ゴジラの逆襲」で、別の個体が日本を襲う。ぬいぐるみは新造したものだが、基本的なデザインは引き継いでいる。このゴジラは最後に「氷詰め作戦」で雪山に閉じ込められる。7年後の「キンゴジ」では、溶けた氷山からゴジラが姿を現すので、これは同一個体と考えられる。これ以後第15作の「メカゴジラの逆襲」までが、この二代目ゴジラである。だが、キンゴジ以降のゴジラは、顔以外にも大きな変化があった。足の指が4本から3本になったのである。まさか凍傷で取れた?
 5作目の「三大怪獣 地球最大の決戦」を初めてTVで見た時はがっかりした。キングギドラが初登場する作品だが、圧倒的な力を誇るギドラに、ゴジラ・ラドン・モスラが協力して立ち向かうというもの。富士山麓で三大怪獣の会談が行われ、ザ・ピーナッツ扮する小美人が通訳する。「モスラは『これまでのことはさっぱり水に流そうではないか』と説得していますが、ゴジラとラドンは『お前が先に謝れ』と言い合っています」。このあまりの幼稚さに呆れてしまったのである。その頃の僕はウルトラシリーズもだんだん見なくなっていた。餅つき怪獣「モチロン」を使ってウルトラのお餅つきなんて、子供を馬鹿にしている。こうして子供にもそっぽを向かれるようになり、70年代半ばにはウルトラシリーズもゴジラシリーズも相次いで終了し、特撮冬の時代に入るのである。
 話を戻して、この「地球最大の決戦」以来、ゴジラは人類の味方となり、顔つきも柔和になってゆく。特にひどいのが「ゴジラ対メガロ(1973)」に登場する、通称「メガロゴジ」だ。とぼけた父さんみたいな顔で、とてもゴジラには見えない。

 84年のゴジラは、「原点回帰」を謳った。だが、完全なリメイクになるのかと思えば、54年のゴジラだけは歴史に残し、「逆襲」以降のゴジラを「なかったこと」にしたのである。したがって映画の中の世界では二代目、東宝全体では三代目のゴジラということになる。このゴジラは耳が復活し、足も四本指に戻った。体長は時代に合わせて80メートルになった。映画の最後で伊豆大島・三原山の火口に墜ちる。そして五年後、その火口からゴジラが再び出現する。「VSビオランテ」である。ちなみに僕はこの映画はかなり好きだ。大森一樹の才気が感じられ、すぎやまこういちの音楽もいい。そしてここから「平成シリーズ(VSシリーズ)」が始まる。大島の火口の中でゴジラはまた変貌を遂げた。頭が小さく、歯列は二重になり、いかり肩で胸板が厚く筋骨隆々という感じになる。そして次の「VSキングギドラ」では未来人の関与により、巨大化前のゴジラザウルスがベーリング海に移される。だが、ソ連の原潜事故と日本が極秘に持っていた原潜(!)のエネルギーを吸ってさらに巨大化、100メートルになってしまう。ちなみにこの時のゴジラザウルスは54年のゴジラだという説もあり、もしそうならさらにややこしい。この「平成ゴジラ」は、「VSデストロイア」で、メルトダウンしてしまうが、「VSメカゴジラ」の回で初登場したベビーゴジラがその時の核エネルギーを吸収して一人前のゴジラに成長する。
 98年のハリウッド版ゴジラは、フランスの水爆実験の影響でイグアナが巨大化した設定で、巨大な下あごと、鳥脚類の恐竜のような脚が特徴。とてもゴジラに見えない。魚を主食とし、通常兵器で死滅する唯一のゴジラである。
 日本では99年に「ゴジラ2000ミレニアム」でシリーズが再開されるが、このゴジラはベビーゴジラが成長したものではなく、84年以降のゴジラがまたも「なかったこと」にされた。以降「ゴジラFINAL WARS」まで、6本が作られるが「×メカゴジラ」とその続編を除いて相互の関係はなく、設定やゴジラのデザインも毎回違う。中でも異色なのが金子修介監督の「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」のゴジラで、犬歯が牙のように尖り、黒目がないという「凶相」であった。
 「シン・ゴジラ」は記憶に新しい。このゴジラは巨大だが、摺り足で歩くだけである。そして今度のゴジラは、前にも書いたように米・レジェンダリー社のゴジラと比較的似ている。その米版ゴジラは頭が極端に小さく、首も短いので、ステゴザウルスが後足で直立したように見える。結局共通するゴジラの特徴は、直立歩行する背びれのある恐竜型の巨大生物であることと、口から熱線を吐くことぐらいだ(98年の米版ゴジラは熱線を吐かないが)。
 見た目以外のゴジラ像や物語の設定も変化している。昭和シリーズの後半ではゴジラは「正義の味方」だ。前記した「対メガロ」では人型ロボットのジェットジャガーとタッグを組んで敵怪獣を撃退した後、がっちり握手を交わしたりしている。平成シリーズは比較的シリーズの連続性が保たれているものの、細かな齟齬は数知れない。ミレニアムシリーズは前述したとおり、一作ごとに設定が違う。一例をあげると、「×メガギラス(2000)」ではゴジラに焦土にされた東京に替わって大阪が首都になっている。同じ俳優が、別の作品では別の役で出ていることも多い。あくまで主役はゴジラだというのかもしれないが、そのゴジラ像がぶれまくっているのだ。核の恐怖を正面から描いているのは、54年と84年のゴジラくらい。その意味で今回の「ゴジラ-1.0」は原点回帰した作品と言える。だが、次回作はまた全然違ったものになるかもしれないのだ。

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